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2006年03月13日

Dr.平石日記/2006幕開けは亜細亜大学・箱根駅伝総合優勝!!

2006年は日本中の駅伝ファンが、みんな驚いた「第82回箱根駅伝/亜細亜大学総合優勝」で幕が開きました。とにかくうれしかった瞬間です。
箱根駅伝への挑戦はいつから始めたかはっきり憶えていないくらい、長い挑戦でした。最初はやはり亜細亜大学の選手が何人かコンディショニングで通院し始めました。やがてほとんどの部員が治療に訪れましたが、当時の大槻監督には最後まで面識がありませんでした。選手の自主性に任せた戦いが5,6年つづき、ついに村田キャプテンの時代にシード権を獲得したことを機に亜細亜を離れ、帝京大学陸上部にあの喜多監督が就任。彼から正式にチームドクターを要請され選手全員の健康管理とコンディショニングを始めました。

そのころから、箱根駅伝(以後、箱根)は人気競技となり沿道には毎年320万人以上のファンが熱い声援を送ってくださいました。山梨学院大の台頭や早稲田大学ニ瀬古監督の復帰や渡辺君らの悲劇の棄権、さらに地元神奈川大の躍進などで人気は一気に上がりました。そのため関東圏内の大学陸上部は競って予選会に出場。100校近くの予選会は1校15名では危険となり1校12名の参加、上位10名の成績合算方式に変わりました。10名を揃えるのがやっとの新参者帝京大はこの好機を活かし、チームドクター就任2年目で箱根初出場、「赤い旋風」を起こし、その3年後にはシード権獲得する足跡でした。しかしその後帝京大学はシード権は維持しましたが、低迷。原因は監督と選手の意思疎通、何でも自分で管理する喜多監督がコーチを育てられず、いつしかシード権落ち。監督自身は優しい人柄でしたが、実績もないOBたちのうるさい意見に挟まその苦労は大変だったと思います(平成17年5月末に喜多さんは突然監督解任)。毎年予選会からの挑戦は辛かったです。選手は短い2ヶ月間に2度のピークを作る必要があり、そこがシード権の有無の大きな違いでした。帝京10年間の蓄積は箱根の大きな勉強になりました。そしてシード権を取った亜細亜大学OBらがもう一度亜細亜大に戻ってほしいとクリニックを訪れたのは今から7年前。
私が帝京に移籍してから一度も箱根を走ってないほど低迷していました。私からの条件は大学に交渉して監督交代でした。彼らはOB会を動かしついに「岡田監督(前ニコニコドー監督、以後岡田)の就任」にこぎつけました。最初は帝京と亜細亜大のドクター掛け持ちでしたが、何年も箱根に出場していない大学には優秀な高校生は集まらず、岡田監督の苦労は大変なものだったと思います。

陸上部の学生は本当に真面目です。サッカー部や野球部の学生は多少遊んでも成績には大きく関与しません。しかし陸上部は1度でも合コンや羽目をはずすと不思議と成績は上がりません。それゆえ、選手同士は非常にコツコツ練習に励みます。寮長が、師走のまだ夜も明けない午前3時過ぎ、暗い道を一人黙々走る選手に「君は何区を走るんだ?」と声を掛けると「自分は付き添いです。今年は選ばれませんでした」と応えたそうです。以前に、陸上選手は一度遊びを憶えるとだめなんだと岡田は私に教えてくれました。それほど陸上、とくに駅伝や長距離はセンシティブなんです。昔、東京五輪マラソン銅メダルの円谷幸吉選手の「もう幸吉は走れません」とメキシコ大会を目前にした時に、遺書を残したあの事件でも競技に対する真摯な思いの表れなんです。
そんな心底真面目な彼らに、駅伝は必ず襷を繋ぐというまさにこれ以上の過酷な競技はあるでしょうか?今年も順大主将や駒大最速アンカーの悲壮なまでの戦いぶりには、まさに敵ながらあっぱれな走りでした。箱根はそれら心身すべてをチームにのしかかる激しい戦いなんです。それゆえ襷の重さが多くのファンの心を動かすのでしょう。
何度も挑戦しながらなかなか駒澤の背中も見えなかった亜細亜は、昨年の戦いからようやく感触を得てきました。初めての3位入賞の一昨年よりタイムは5分以上早かったのですが、結果は7位。しかし確実に選手は育っていました。8月の夏合宿では、例年と同じく1100Kmの走りこみを終了、帰京後もすぐに血液検査を施行。春から毎月のように選手の血液検査は繰りかえされ、データは岡田や小野コーチの元へ。今年も秋の出雲や伊勢の大学駅伝では ぱっとしない成績で、ほとんどどこからも注目されませんでした。しかし疲労からの回復やスタミナ・パワーの改善は大きな進歩でした。
とくに、夏前から選手に摂取していただいた小田原かまぼこの名門「小田原・鈴廣」さんが開発した魚肉からのプロテイン(FPP:魚肉ペプチド、マリーンサプリと称します)は、選手の肉体改造に大きな役割を示しました。疲労回復やパワー増強、動脈硬化などの予防に大きな力を発揮しました。若い選手に動脈硬化なんてと思われますが、足底筋膜炎など非常に細かい血管の故障は、このFPPでほとんど防げました。(FPPは現在、一般人の方々で臨床実験中です。高血圧や高脂血症の予防と、肉体改造に効果が期待出来ます)
また選手の栄養補給についての知識は徹底され、選手は個人で管理をほとんど出来るほどになっていました。寮の食事をまかなってくれるグリーンハウスのお姉さんたちももう、完全に家族。一人ひとりの体調や食欲などを考え、本当によく頑張ってくれました。少ない予算でも、たくさんのおかずを出してくれる毎日の食事はまさにおふくろの味だったことでしょう。
私の箱根は毎年元旦の夕方4時から始まります。
東京駅のすぐ横、富士屋ホテルに第1区と監督・マネージャー以下付き人ら5~6名が集合。そこから1区の選手のニンニク注射と、岡田監督の指示を聞いてさらに2・3区の藤沢・法華クラブ、4・5区が控える小田原ステーションホテルへと、順次ニンニク注射をしながら、選手の体調や監督から特別に指示の出た選手の足首や膝などを診察し、果たして明日20Km以上の道程を走りきれるかを判断し、一人ひとりについて東京の岡田監督へ報告。最終判断を監督がして、エントリーします!
緊張気味の選手もいれば、リラックスしてはしゃぐ選手もいます。付き人の彼らと一体感になって、先輩も後輩もありません。一種の興奮状態でみんなそれぞれの箱根を迎えます。
今年のキャプテンは、2区板倉君4年生でした。よくチームをまとめましたが、なにより彼が一番のブレーキだったのが幸いしたのか?みんなが板倉を泣かせるな!とレース当日さらに結束したからでしょう。彼は先天的に左手が指1本で、手を握ることが出来ませんでした。雪が舞う2区は寒い向かい風で、一気に体温は下がり、区間17位は可哀想なことをしました。日大サイモンも同じ、寒さで失速しました。3区の戸塚中継で彼を迎えた私は、ブレーキしたのすっかり忘れた素振りの板倉には、多少びっくりしましたが「先生、腹減った!」の一言に涙が出て、「そうかそうか、島守温かい肉まんとあんまん買って来いよ!」と小田原へ向かう車の中で、大声できつかった~!、とか寒かったですよ!と話す明るい板倉を見て現代っ子の様子を観ていました。チームにブレーキをかけた選手なら、もうその責任感の重さでそのまま寮に帰った時代とは違います。抜き返した選手には、ありがとう!これで恥かかなくって助かったよ~、とねぎらう姿に、彼のキャプテンスタイルを感じました。板倉でよかった!
結局往路6位でゴール。監督の計算よりたった18秒遅い記録。選手は自信を深め、翌日の復路を迎えました。
復路はまさに岡田監督の真骨頂!選手は数秒の誤差で、すべて区間を走りきり、まんまと総合優勝目指し、それぞれの箱根を走りきったのです。テレビやラジオでは、あの亜細亜が・・・を連発されましたが私たちは真剣に優勝を狙っていました。まさに若き信長や秀吉のように綿密な計画で走っていました。今年最高の出来を示したのが、全区間5Kmごとに配置された部員が、非常に正確に全選手のタイム・走りっぷり・前後の差を正確に監督車に報告し、それをもとに1Km3分何秒、2分55秒とペースを選手に指示出来た事が、反省会で最初に監督が誉めた一言でした。その指示がなければ、選手は不安と気象状況で、ペースを崩したことでしょう。木許のプレッシャーの中での冷静な戦い、菊池・小澤の負けん気と忠誠心、岡田のくせ、北條の隠れた能力、山下の爆発力、岡田直寛の冷静さなどすべて監督が知った上での作戦は見事なまでに的中していました。1年間寝食ともにした結果でしょうが、大変なことです。アンカー直寛の笑顔が大きくTVに映し出された時には、うれしくてうれしくて、涙でよく見えませんでした。
寒い朝、沿道の何時間も前から陣取って旗をつくり、応援をしてくれた数多くのサポーター。きっと誰から亜細亜大学と縁を持ち、毎年応援に来てくれる人たち・・・。そんなたくさんの人たちに優勝は最高のお礼でした。沿道230Kmはもちろん、全国の駅伝ファンの心に残るレースでした。
途中失速した順大・難波は、前日に高熱らしいと情報が入り、それでも出場した彼の心意気には驚きましたが、やはりスポーツは科学。無理すれば戦える箱根ではありません!冷静な判断はあの名将沢木総監督も狂わせたのでしょう。同じ順大今井君の山登りも、今後十年は破られない記録でした。
いつも日か、五輪マラソンであの今井君ですという解説が聞こえてくるようです。
そうそう、僕の患者兼教え子の帝京大OB中越くんが、そろそろ北京五輪を走れそうなところまで来ました。2区常連の彼は、箱根で鍛えたその足で天安門広場を最初の走ってくれそうです。みんな順調に育ってます。箱根はまさにひとつの峠、天下の剣は、若者たちをいまも鍛えてくれてます。
車で、あの曲がりくねった道を走ると、何十人もの選手の笑顔が思い出されます。1年間絶好調で迎えた4年の箱根、年末にC型肝炎が発見され(鍼灸の治療で感染)ついにぎりぎりで走れなかった原田(原田とは全区の往診が終わって僕の到着を待っていた元旦の深夜、寝静まった宿舎で悔し涙で彼と抱き合って泣きました。)や、1年生から連続出場していたのに4年の最後の箱根直前で、水疱瘡で泣いた馬鹿な佐藤、さぼりが得意の北島は、知らん顔して区間新を作った。卒業と同時にスパイクを脱いだ選手、いまもニューイヤーで一所懸命走っているたくさんの選手、そろそろ五輪マラソン代表に名前が上がる選手、名選手を育てた箱根には、勝ったチームにも負け続けるチームにもきっと涙、涙の埋もれていく話がきっとあるのでしょう。
しかし、どんなチームもあの二日間の夢を乗せて頑張っています。本当はとても辛いのに・・・・。

投稿者 hiraishi : 09:50 | コメント (6021)